明治新政府より県の創設、許可を獲得したのは八戸と斗南両藩連合チーム ↓ 藩内体制がしっかりしていた八戸、盛岡、秋田と違い弘前藩は藩主を筆頭に家臣其々が保身に奔り統一されず物色外交を重ねていくので新政府側からも不信を買っていた事が伝わっている
その為弘前津軽藩は一時は錦旗の返還まで要求されている
その後、新政府側から鶴岡、秋田戦争、箱館戦争への出兵、兵糧等を立て続けに命令されて年間の藩の予算を大幅に上回る出費を余儀なくされて、打つ手が無くなった挙句に藩札を出したが一瞬で紙切れに変わっている。
窮地に遭った弘前を偶然救ったのが斗南の広澤安任と八戸の太田喜満多(広城)が画策した南下するロシアに対抗する為の現在の青森県構想だった
新政府からの強い圧力で意思統一されない弘前藩を押し付けられ、 渋々引き受けた挙句、新政府が駐留する弘前へ当初は県庁を置く事になったが、やはり弘前の能力、資質ではその任は果たせないと判断されて僅か19日で箱館との交易港の現在の青森へ県庁が移された
莫大な借金を背負っていた弘前津軽藩はこの後、広澤安任、太田広城が国から資金を借入て始めた洋式牧場に習い青森県から資金を借りて同じ洋式牧場を始め次に洋式りんご栽培を奨励してようやく糧を得ていく
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