飢饉による藩別餓死者数 元禄8 津軽藩10万 南部藩4万 天明3 天保4 津軽藩3万5616 天保10 4万7千40
天明三年の津軽藩には8万1702人説もあり、最後の天保の大飢饉では津軽藩で天保8年だけで4万5千人説がある。
野垂れ死にを加え、飢饉の犠牲者が何万、何十万あったのか実はよくわからない。 史料に死者数が出ているものから拾い上げると上のようになる。 しかし、これとて異説異論があってはっきりしない。 例えば元禄8年の津軽藩の死者数は20万人説もある。
五大飢饉のうち、元和元年や天保8年等が上に入っていない。 確かに元和元年の飢饉は翌春『弘前城堀端に餓鬼山が出来る』ほどの大飢饉であった。なのに犠牲者の具体的な記録はない。 次に、餓死者が多いからイコール大飢饉という等式も実は当てはまらない。なぜか。天保7年飢饉では、津軽藩で死者が多数出ているのに、八戸藩にはない。
これは記録がないのではなく、実際に死者が出なかったのである。
八戸藩が適切、有効な手を打ったのと比べると、弘前津軽藩はあれよあれよと騒ぐだけで手をこまねき傍観するだけ、あるいは凶作なのに貯蔵米を売りに出してしまう失政などで、その差が結果になってはっきり出たのである。
|