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■ 天明の飢饉 弘前大学関根教授が新見解 供養塔が「失政」語る
1:三八上北地方さん
2025/08/15 22:36:41 ID:WiXa9Tpg
天明の飢饉、通説の前から? 弘前大学(青森県)関根教授が新見解 供養塔が「失政」語った
5/21(水) 11:32配信 東奥日報
15: Delete
2025/12/01 23:28:39 ID:R2ck8836
16: 三八上北地方さん
2025/12/02 04:58:08 ID:nE8eNNkA
津軽の寒冷で農業に不適な気侯の上に、石高が少ない土地にも拘らず、今尚現存する桜に囲まれた弘前城の天守閣を、津軽藩が築城することができたのは、幕府に報告していない隠し田畑があったからだと聞いたことがあります。
が、実際はそうではなく阿片製の秘薬・一粒金丹で得た毎月100両以上の収入で、弘前城の築城建造費を賄っていたと指摘されています。
弘前藩が「秘薬」アヘンを製造 「気分良くなる」と評判、偽薬も流通
江戸時代の津軽地方では、アヘン(阿芙蓉)の原材料であるケシが政策的に栽培されていた。弘前藩「御国日記」には栽培地や栽培に関わる医師名が記されており、「御用格」にはアヘンを用いた漢方薬「一粒金丹(いちりゅうきんたん)」の記事が多数見られる。
服用すると気分が良くなる、疲れが取れる、熱が下がる、下痢が止まるなど評判は上々だったが、当初は津軽家の関係者に下賜される秘薬だった。
家中の者はかなりの確度で入手できたので、家族や親戚のための願い出も多く、公用旅行の場合は優先的に認められた。
津軽藩では領民もアヘンの中毒症状に侵されていたと考えられます。
『津軽弘前』= 『 阿片アヘン 』
17: 三八上北地方さん
2025/12/02 05:15:25 ID:GgoOhtXI
1783年、 津軽藩は 史上最悪の凶作に見舞われ、 飢饉は極限に達した。 領民が、 餓死した家族の死体を 貪り喰うのは 当たり前。 中には、 生きている我が子の股ぐらに 喰らいつく親もいた。 #飢饉 #津軽藩 #人肉食 #カニバリズム
18: 三八上北地方さん
2025/12/02 05:18:47 ID:9M7CIoUg
関根教授は「弘前藩の政治判断には誤りがあった。天明の飢饉の推移については再考する必要がある」と、飢饉の人災的な側面を指摘する。
菊池名誉教授は「弘前藩は市場経済のリスクを甘く見た。今日の食糧経済はグローバル化や気候変動によってさらに不安定になっている。極端に食料自給率が低いわが国は、米国トランプ大統領の関税政策などへの対応を誤ると、食料不足の再来を招きかねない」と話している。
19: 三八上北地方さん
2025/12/02 06:59:34 ID:/kDfaHsk
何これ?
趣味のカテゴリでやってくれ
20: 三八上北地方さん
2025/12/02 19:17:15 ID:ehlzjZCM
長くて目がチカチカします 別なところでやって
21: 三八上北地方さん
2025/12/03 09:09:35 ID:4nhQRPxw
みなさん天明の飢饉の生存者なんですか?
22: 三八上北地方さん
2025/12/03 11:15:35 ID:GFQCWdRo
関根教授は県内の江戸期の飢饉供養塔の悉皆(しっかい)調査を実施しており、これまで天明の飢饉の時のもの118基を含め129基を確認している。
新見解を導いたのは、弘前市中別所地区にある、高さ約150センチの供養塔。「天明三年」「二月」の建立年月が刻まれており、天明期で最古のものだ。一般に、天明の飢饉は3年と4年の秋の大凶作によって引き起こされたとされており、関根教授は「中別所の供養塔は3年の初めごろには既に餓死者が出ていた可能性が高いことを物語っている」と、通説との矛盾を指摘する。
弘前藩など東北の諸藩は、年貢で徴収した米を江戸や大坂に移出して現金に換える「回米」を行っていた。「飢えと食の日本史」(2019年、吉川弘文館)などの著書がある、宮城学院女子大学の菊池勇夫名誉教授(五戸町出身、仙台市在住)によると、全国的に不作だった天明2年、弘前藩は領内も作柄が良くなかったにもかかわらず、米価が上がったため例年通り回米を実施。そこに3年の大凶作が襲った。4年も労働力や種もみの不足に疫病なども重なり、大きな影響が続いた。
23: 三八上北地方さん
2025/12/03 11:21:05 ID:1bGpPd/g
ドヤ顔でひとが書いたものをアップして博識面
寂しい爺さん
24: 三八上北地方さん
2025/12/03 11:39:09 ID:kiLvey0c
藩内体制がしっかりしていた八戸、盛岡、秋田と違い弘前藩は藩主を筆頭に家臣其々が保身に奔り統一されず物色外交を重ねていくので新政府側からも不信を買っていた事が伝わっている
その為弘前津軽藩は一時は錦旗の返還まで要求されている
その後、新政府側から鶴岡、秋田戦争、箱館戦争への出兵、兵糧等を立て続けに命令されて年間の藩の予算を大幅に上回る出費を余儀なくされて、打つ手が無くなった挙句に藩札を出したが一瞬で紙切れに変わっている。
窮地に遭った弘前を偶然救ったのが斗南の広澤安任と八戸の太田喜満多(広城)が画策した南下するロシアに対抗する為の現在の青森県構想だった
新政府からの強い圧力で意思統一されない弘前藩を押し付けられ、
渋々引き受けた挙句、新政府が駐留する弘前へ当初は県庁を置く事になったが、やはり弘前の能力、資質ではその任は果たせないと判断されて僅か19日で箱館との交易港の現在の青森へ県庁が移された。
25: Delete
2025/12/03 14:41:35 ID:yve3W506
26: Delete
2025/12/03 15:00:32 ID:rmW/h362
27: 三八上北地方さん
2025/12/03 15:25:33 ID:zQJfobXY
津軽が米どころはハッタリ
弘前藩はもともと豊かな土地とはいえない地域である上に、度重なる飢饉で荒廃しきっており、35万両もの借金を抱えていた
藩の借金返済のため、領民のことを考えずに米を回米に出していたため、飢饉になると大量の餓死者を出していたのが事実
28: 三八上北地方さん
2025/12/04 15:55:38 ID:YkGUB6tU
津軽の米農家は畜産の動物用の米を人間用だと偽って販売して逮捕されている
29: 三八上北地方さん
2025/12/04 22:59:36 ID:S3FcK8IQ
やたらと長い 他でやって
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